プロフィールに代えて

 
産婦人科の先生に宛てた手紙 平成8年2月


































 


 前略失礼いたします
 直接お会いしてでなく書面にてお伝えする失礼を
どうぞお赦し下さいませ
先日は長びいた診察のあと、お疲れの時にお時間を割いて
頂きましてありがとうございました。
 先生の医師としての心配、お気遣いは、診察の度感じられて
そのことは本当にありがたく、感謝しています。何かお尋ねしても
決して高飛車でも、押しつけがましくもなく、ていねいに説明して
下さって、診察室へ入ることが恐ろしくなかったことは、本当に嬉しい
ことでした。にも拘らず、病院での検診、検査を私が負担に感じて
いることをお伝えせねばならないのは、心苦しく、悲しくさえあります。
けれど一方で、先生がきちんとお話して下さるのだから、私も
自分の感じていることをお伝えすることで、応えなければ、と
思ってもいます。

 もう先生も感じていらっしゃると思いますが、私はいわゆる
病気、身体の具合が悪くなってもすぐには医者にいきません。
家庭で養生するか、どうにも困った時には東洋医学的な
専門家を訪ねます。
 というのは、病院などでは、熱やセキが出ること、ガンができること
などは悪いこと、解熱剤やセキ止めや外科的処置を用いても
とりのぞかなければならないものと考えますが、私はそうは思って
いないからです。ハナミズや啖は、からだの防衛機構が働いた
証拠ですし、セキはそれを体外に出そうとする働きです。
熱は身体にたまったいらないものをとかして外に出す大そうじを
してくれます。ガンも38.5℃以上の熱でとけてしまうと聞いたことが
あります。自然のしくみはありがたいことです。













注)解熱後の尿検査で少し糖と蛋白が下り、医師より注意を促された
 


 私も去年39℃の熱を出しましたが、去年の夏はつわりのため
寒気がしてあまり汗をかかなかったので、汗で出せなくて
たまっていたものを熱でとかして大そうじできたなあと喜んでいます。
ガンなども、誰でも出きたり消えたりしているものらしいですが、
あの時の熱でリセットされたかなと思っています。
そのときの老廃物が尿の中に出るのですから、糖や蛋白が 
(注)
おりても不思議はないなあと思っています。むしろ、きちんと
排泄してくれていることに感謝しています。

 今回、不整脈で苦しんで、数年前にある人から聞いた話を
思い出しました。その方は、30代で何十もの病気を抱えて、死の淵を
さまよい、自分の身体で色々な療法を試された方だったのですが、
今でも鮮明に覚えている話があります。

 「私達は食べすぎたり、夜ふかししたりして、自分の身体を
 いためつける。でもどんなに扱われても、文句を言わずに
 働いてくれる内臓に対して、ちゃんと働いてあたり前と思い、
 少しでも様子がおかしいと、どこか悪いのでは、と疑い検査して
 調べようとする。疑う前に、一度、私のために働いてくれてありがとう
 と言ってみませんか。私達がテレビを見ていても、酔っぱらって眠って
 いても休まずに生命を支えてくれるからだにありがとうと
 言ってみませんか。そしてからだがよろこぶ生き方をしませんか。
 私達は自分の意志で、ホンの10秒でも心臓を動かすことも
 逆に止めることもできないのですよ」

 


 


 エコーに写る自分の心臓の鼓動を見ながら、ああこの心臓は
私がこの世に生を受けてからずっと、一時も休むことなく
打ちつづけてくれたんだなあ、大変だろうなあ、ありがたいなあ
と思い、力強く脈うつその姿をたのもしく思いました。
そうしたら気持ちがスーっとおちついて、不整脈も減っていきました。
 今回、妊娠したことで、不整脈が色々な意味で障害になり
私も真剣にとりくまざるをえなくなりました。日常生活では
特に不自由がなかったので、妊娠しなければ、きっとてきとうに
うっちゃっていたことでしょう。おかげで背中にある古いしこりが
わかり、今はマッサージなどでほぐれていっています。身体は
日増しに重くなり、心臓への負担は大きくなっているはずですが、
心臓の方はだんだん楽になっていっているようです。

 でもこんな風に考えている私ではあっても、先生から様々な
危険性のお話を伺うと、やはり不安になります。
自分のことだけでなく、赤ん坊にも関わることだけに、そしてまた
お産の時には、産婦である私自身は、不測の事態に一人では
対応できないだけに、引き受けて下さる助産婦さんもおぼつかない
状況では 不安になりました。
 それに赤ん坊に何かあった時、責められるのは母親です。だれよりも
自分が自分自身を責めます。妊産婦というのは、身体の負担だけ
でなく、それだけのプレッシャーを常に負わされています。だから
単にホルモンバランスの問題だけでなく、妊娠中は精神的に
不安定になりやすいのだと思います。
 病院では順調なことにはノーコメント、何か問題があることだけ
指摘されます。病院の性質上、無理からぬことなのですが、
だからこそ、私にとってはしんどい、のです。




注)毛利さんは、現在、神戸で助産院をしておられます。当時は震災後で出張分娩をされていました。
 


 毛利さんの検診のお話をすることで、その意味をお伝えすることが
できるでしょうか。彼女はガラスのコップに尿をとり、「ああ、きれいな
オシッコね」と言い、検査紙をつけて「糖もたん白もおりていません。
ホントにきれいね」と言ってコップを洗い、血圧、腹囲と子宮底を測り、
胎児の心音をきく機械を出して、おなかにあて、「あーあ、しっかりした
心音だこと。赤ちゃんお元気ですよ」といって下さいました。その言葉
を聞いた時、何とも言えず嬉しくて、そして安堵したのを覚えています。
安らかで幸せな気分でした。次の日はいつになく体調がよく、朝から
家事がはかどりました。
 病院に検診にいくと、長い時間がかかって体がくたびれてしまうと
いうのも もちろんありますが、先生から伺った危険性や検査のことが
どこかにちらついて気持ちがおちこんで、2、3日ゴロゴロしてしまいます。
病院では必ず内診がありますが、それもかなりのストレスになります。
それは全ての女性が感じていると思います。
 もっとも、人によっては、徹底的に調べてもらい、”お医者さま”に診て
もらうことで安心するという場合もありますから、これはあくまで
私の場合のお話です。ただ私のように感じる人が増えてきている、
というか、そのことを声に出す人が増えてきてはいるようです。

 今回、9年ぶりに妊娠して、私の中でいろんな想いがめぐりましたが、
とにかくもう一度お産をして、子供を育てていくんだということに
向きあった時、初めに思ったのが、「今度は自宅で、家族の中で
産もう」 ということでした。そして 「人の判断でなく、生まれてくる
子供と産みだす自分の身体にまかせて、私にとっても、子供にとっても
ラクなお産にしよう」 と思いました。


 


 これは言いかえれば、病院でのお産はラクではないということです。
仰向けで、重力に逆らい、腰に負担がかかり、これ以上の屈辱は
ないというような格好で、くくりつけられ、身動きもとれず、
ノドがかわいても、おなかがすいても、水一杯飲ませてもらえず、
点滴され、寒くても毛布一枚かけてもらえず、何かわからない
金属性の音が回りにカチャカチャいって、あげくの果て、一人で
放っておかれる。。。これから何がおこるのか、どうされるのかわからない
不安、恐怖というのはとても言葉に尽くせません。
そして必要があってもなくても、一律に会陰を切開し、赤ん坊を
ひきずり出す、そしてまだ拍動があるうちにへその緒を切り、
胎盤などは医者と助産婦が二人がかりでお腹をギュウギュウ
押して出さされました。
 赤ん坊にしてみれば、自分のペースで産道をおりていたのに、最後の
所で母体の強烈なしめつけにあい (私の場合、子供が産道の中を
まわっていくのがわかる位余裕があって、会陰切開の時だけ、思わず
叫び声を上げた位、痛かった) 見知らぬ人にひきずり出され、
そこは、こうこうと明るくて、わかがわからないうちに母親との間を
つなぐ へその緒を切られ、産湯につけられ、母親に抱かれることも
なく、新生児室へと連れられていくのです。なんて不幸なこの世との
出会いだと思われませんか。
 ル・ボワイエはこのようなお産を ”暴力” と表現しましたが、私も
まさにそうだと感じます。


 


 私は、自分にとっても、生まれてくる子供にとっても家族にとっても
一番いいお産がしたいと思いました。そのために必要な知識や
心構えを身につけるため、たくさん本も読みました。その中で
新しい発見もあり、自分がやろうとしていることへの確信も持て
ました。私は、子供が新しい世界と ”呼吸” に慣れる準備が整うまで
へその緒がつながったままで、子供を抱いていてやりたいし、拍動が
止まってから切り、自分で胎盤を出し、赤ん坊を育ててくれた胎盤に
みんなでありがとうと言って、夫と子供達の手で、庭に埋めてもらおう
と思っています。産む部屋はうす暗くして、おだやかな中で子供を
迎えてやりたい、だれも傷つける人のいない、やさしいなごやかさの中で
迎えてやることが何よりの祝福であり、私達が子供にしてやれる最良の
ことだと思うからです。そのことが、子供の基本的な生命力にとって
大きな意味があることを、産科医の立場から著してくれたミシェル・
オダンには背中をぐっと押してもらったように感じます。彼の著書の
”バース・リボーン”、”プライマル・ヘルス” まだお読みでなければ、是非
読んで頂きたい本です。


 


 先生から病院での出産を勧められていながら、それでも自宅で、
というにはそれなりの覚悟と勇気がいります。例えばもし未熟児で
生まれたら?-----保温のために保育器に入れるのなら、じゃあ
素肌に抱いて、自分の体温で温めてやればいいのでは、そうすれば
温度だけでない温かさも、母乳も与えてやれる。手でさすって慈しんで
やることもできる。母親のにおいで安心させてやれる----そう思いました。
そうすることが有効なことが ”プライマル・ヘルス” の中に書いてあり、
「それでいいんだよ」 と言ってもらったようで嬉しくなりました。
それでも次々おそってくる不安に 「いっそのこと、麻酔で何も
苦しまないで産んじゃえばラクかな?」 という考えが頭をよぎる
こともありましたが、片桐助産院での分娩を紹介した本などを
( ”らくらくうれしく水中出産” ”産まれる瞬間” )読んでいると
身体の中が震えるような深い響きがあって、涙があふれてきて
「こんなお産が出来ないなら何の意味もない」
と思えてきて 「せっかく産むんだから、やっぱり納得のいくお産を」
という気持ちがわいてくるのです。
 この豊かで おだやかで 幸せな お産の世界と、病院での出産と
それに連なる検診とは全く異質のものです。とても違和感を
感じます。私は豊かなお産の世界に身をおきたいと思うのです。
子供が10ヶ月かかって生まれてくる準備をするように、私も10ヶ月
かかって産む準備ができてきたかな、という感じです。


 


 「もう病院にいくのはやめよう」
と思い、先生への手紙を書こうと思いたった時から、頭の中で
言葉が流れていくけど紙に残せなくて、こんなにたくさん書いたのに
自分が言いたいことがあらわせていないような気がします。
でも、とりあえず、先生への最低の礼儀は果たせたかな、と思って
ホッとしています。長々とつきあって頂いてありがとうございました。
これを読んで、私に関する心配が少しでもなくなったならいいのですけど。

 最後に1つだけ先生にお願い、というか提案があります。
医者や助産婦と妊産婦が、診察する側とされる側 という立場を
はなれて、幸せな赤ちゃんと幸せなおかあさんのために、想いと知恵を
寄せあい、学びあえるような場をつくれないでしょうか。それは、とても
大きな力になると思います。どうか真剣に検討してみて下さい。

 では、これで失礼いたします。乱文乱筆お許し下さい。
医者の不養生と申します。不規則な生活で大変でしょうが
どうぞ御自愛下さいませ。
 先生に安産の御報告ができますようにと祈りつつ

                              西村令子      


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